ジャワ島について

歴史2

ジャワ島のジャワ島の概要

(1596年-1824年)

1596年、オランダ艦隊がバンテンに来航しオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の進出が始まった、オランダ東インド会社の植民地経営の拠点として1619年にバタヴィア(現在のジャカルタ)が建設される。その後オランダはモルッカ島の香辛料などを獲得しジャワ島を集積地として中継貿易を展開した、1623年にはアンボイナ事件によりイギリスを排除することに成功した、しかし、17世紀後半から18世紀にかけイギリスが海洋帝国として隆盛期を迎えると次第に衰退していった。
オランダは次第に貿易から領土支配へと関心を変化させていった。香料などの奢侈品の交易から、コーヒー・サトウキビなどのプランテーション経営に方針を切り替え、ジャワ島の領土化をおこない、バンテン王国、マタラム王国を事実上の保護国とし、オランダ領東インドを拡大した。フランス革命の余波によりネーデルラント連邦共和国が滅亡、1799年にオランダ東インド会社も解散した。
イギリスの一時占領とオランダの直接統治に加え、本国がナポレオンに占領されるとフランスと戦っていたイギリスが1811年にジャワ島を攻撃して占領した。
イギリス東インド会社はラッフルズを派遣後にジャワ島植民地化を進めたが、ナポレオンの敗北後イギリス本国はフランスとの緩衝国家としてオランダ立憲王国(連合王国)の独立を認めジャワ島の返還を決定した、イギリスの支配は短期間で終了し、以後オランダがオランダ領東インドとして直接支配をすることとなる。

1824年のイギリス=オランダ協定でイギリスはマレー半島、オランダは現在のインドネシア島嶼部を領有することが決定した。

(1825年-1830年)

ディポネゴロを中心とした反オランダ蜂起であるジャワ戦争が起こり、戦争を鎮圧した後、オランダの総督ファン=デン=ボスは強制栽培制度によるコーヒー、サトウキビ、藍の生産を指示した。ジャワ島は耕地がコーヒー、サトウキビ、藍栽培用の大農園に注力したため、米不足となって飢饉が発生したとされる。
20世紀に入り、インドネシア民族運動が始まる、ジャワ島も中心地としてカルティニを筆頭に、サミンの民、ブディ=ウトモ、サレカット=イスラムなどの組織が活動した。

第2次世界大戦中には一時日本軍の軍政下に置かれた後、オランダとの独立戦争を戦い、1950年にインドネシア共和国として独立した後、バタヴィアは首都ジャカルタとして政治経済の中心地となる。

1955年にはジャワ島のバンドンで、第1回のアジア=アフリカ会議が開催される。

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