ジャワ島について

歴史1

ジャワ島のジャワ島の概要

ジャワ古代史に関しては、7世紀以前を西部ジャワ時代(4世紀:タルマヌガラ王国、7世紀:スンダ王国(英語版))、8世紀から10世紀前半までを中部ジャワ時代(8世紀:古マタラム王国・シャイレーンドラ朝)、その後の10世紀前半から16世紀初めまでを東部ジャワ時代に大きく分けられる、東部ジャワ時代の前半の3世紀はクディリ時代(西ジャワにはヒンドゥー国家のパジャジャラン王国(1579年滅亡)があったことが明らかになっている)、後半の3世紀はシンガサリ・マジャパヒト時代と呼んでいる。分ける理由としては王都の変遷、つまり権力と文化の中心地が移ったためである。

インドネシア中心部の島。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教文化が交替し独自の文化を発展させました。

(5世紀-16世紀末)

オランダが進出し、その植民地支配を受けた。第二次大戦後にインドネシア独立の中心地となった。
ジャワ原人の化石が発見されたトリニールもジャワ島にあり現在も人口密集地帯である。
ジャワ島はおよそ3つの区域に分けられ、西部・中部・東部に分かれる、それぞれ異なった歩みをしているので注意が必要。住民の特徴として西部はスンダ人、中部・東部をジャワ人として区別する。
5世紀頃からインド商人の渡来によってインドのグプタ文化が伝えられた、仏教・ヒンドゥー教が信仰されるようになる。
スマトラ島・マレー半島のシュリーヴィジャヤ王国とも関係があり、8世紀の中部ジャワにシャイレーンドラとマタラム王国(古マタラム王国)という二つの国生まれる。
シャイレーンドラでは大乗仏教が信仰し仏教寺院としてボロブドゥール寺院が建設された、マタラム王国ではヒンドゥー教(シヴァ神に対する信仰)が信仰されプランバナンというヒンドゥー寺院が建設される。
ジャワ島中部のほぼ同じ8世紀に、仏教寺院とヒンドゥー寺院が建造されていることがジャワ島の文化において注目すべきことである。 10世紀頃大規模な噴火などの自然災害ではないかという説により文化は忘れ去られていた。
その後、ジャワ島東部には11世紀にクディリ王国が起こった。13世紀にはシンガサリ王国が興ったが、元軍の侵攻を受けることとなった。

1292年、元のフビライが遠征活動の目的として大艦隊を派遣して来たときシンガサリ王国は抵抗した。
また、内紛が生じ国王が殺害されるという事態となったが王家の一族がマジャパヒト王国を建設し、権力を握るという王朝交替が起こる。
マジャパヒト王国は巧みな交渉で元軍を撤退させ、独立は維持に成功した、フビライの南方遠征は軍事的目的より、通商圏の拡大の意図が強く、その実行にはイスラム商人勢力が関わっていた。
その実態は、「遠征軍」という名のムスリム海洋商人の主導による貿易船団であった。
国家と特権を持つ海上企業がタイ・アップした貿易振興事業。
中央にいて、南方の出先からの申請を認可したクビライたちは、ジャワ島についてみると、現地の紛争に出動を要請され、陸戦部隊により山国内戦争に介入してしまった。
内戦に利用され撤退となった。
16世紀から西部にバンテン王国、東部にマタラム王国というイスラム勢力が生まれた。東南アジア最初のイスラム国家で港市国家としてマラッカ王国が1511年にポルトガルによって征服されたことが理由。
マラッカ海峡を通るとポルトガルの関税が課せられることになったムスリム商人は、それを避けてスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通ることになり、スンダ海峡に面したジャワ島西部がイスラム化してバンテン王国が成立したとされる。また、ジャワ島西部ではヒンドゥー教国のマジャパヒト王国が衰えており、イスラーム教国マタラム王国が起こった。

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