バリ島について

歴史2

バリ島の概要

第二次世界大戦と日本軍の占領統治(1942 - 1945年)

太平洋戦争中にバリ島は日本の占領下に置かれた。1942年2月、日本軍が侵攻を開始。 オランダ軍が駐屯していなかったため、日本軍にはほとんど被害がなく、バリ島沖海戦の勝利を経て、わずか20日でオランダ軍は全面降伏した。 現地人は反植民地主義の「解放者」として出迎えるも、同年6月にはオランダと同様の統治体制が敷かれることになった。 この際には、戦前からバリ島で商売を営み信望を集めていた民間人・三浦襄が日本軍の民政部顧問として、軍部と現地社会との仲介役、緩衝役となって活躍した。

しかし、戦況の悪化に伴い物資、労働の徴集が強圧的に進められるようになると、現地の生活は困窮を極めることとなり、 1944年の半ばからはジャワと連携した反日本軍運動も見られるようになった。同年9月、インドネシア独立を容認する小磯声明が出され、 1945年4月にはスカルノが来島しインドネシア独立に向けて演説。民族団結の気運がにわかに高まり、7月に「小スンダ建国同志会」が結成される。

三浦は日本人として唯一、この同志会に加わり、事務総長に就任、インドネシア独立に向けて活動した。 しかし、まもなく敗戦を迎え、独立計画は頓挫。1945年9月7日、三浦は、バリの人びとに対して、日本の国策を押しつけ無理な協力をさせたことを謝罪して自害した。

ングラ・ライの玉砕とインドネシア独立(20世紀中葉)

1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。 しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。 このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、 グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港 (デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残留日本兵の加勢がみられ、このこともあってか現在のバリの人びとの対日感情は良好である)。

このゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、 旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、このなかでも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、 1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。

しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。 1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された。

スハルト体制下の観光開発(20世紀後半)

外国人観光客の推移(単位:人)
  総計 日本(順位)
1970年 24,340 - ( - )
1975年 75,970 - ( - )
1980年 146,644 - ( - )
1985年 211,222 48,217 (2)
1990年 489,710 71,383 (2)
1995年 1,014,085 104,819 (2)
2000年 362,270 (1) 1,412,839
2003年 993,029 185,751 (1)
2004年 1,458,309 326,397 (1)
2005年 1,386,449 310,139 (1)
2006年 1,260,317 255,767 (1)
2007年 1,664,854 351,604 (1)

1945年8月17日、ジャカルタでスカルノがインドネシア共和国の独立を宣言。「小スンダ州」とされたバリでは親共和国派による統治体制の確立が画策されていた。 しかし、戦前以来の旧体制の切り崩しが進まず、1946年3月には再びオランダが上陸し、親共和国派の企図は失敗に終わる。 このオランダ上陸に対しては激しいゲリラ戦が展開され、そのクライマックスである1946年11月20日には、バリ島西部のマルガにて、 グスティ・ングラ・ライ中佐が壮烈な戦死を遂げ、彼の率いていたゲリラ部隊も全滅した(しかし、その勇名は今日のバリ島の国際的な玄関口であるングラ・ライ空港 (デンパサール国際空港の現地正式名称)にとどめられている。なお、この際には旧日本軍の残留日本兵の加勢がみられ、このこともあってか現在のバリの人びとの対日感情は良好である)。

このゲリラ戦を鎮圧したオランダは、1946年12月、バリを親オランダの「東インドネシア国」に帰属する自治地域として宣言し、 旧体制を利用したオランダによる間接統治が敷かれることになった。ただし、このなかでも共和国派と親オランダ派の抗争は続き、 1949年にオランダがインドネシア共和国に主権委譲をした後は共和国派が優勢になり、1950年の独立をもって、ついにバリは共和国に組み込まれることになった。

しかし、スカルノ時代のバリ島社会は大いに乱れ、とりわけ国民党と共産党による政治的な対立が地域社会にまで及んだ。 1965年の9月30日事件に端を発する共産党狩りの際には、一説によるとバリ島だけで10万人が虐殺された。

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