ジャワ島について

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ジャワ島について

ジャワ島概要

ジャワ島

首都ジャカルタが位置することから政治および経済の中枢として繁栄をつづける一方で、ボロブドゥール遺跡やプランバナン寺院などインドネシアが誇る世界遺産が数多く残されており、民族性に富んだ王宮文化を今なお伝え続けている島でもあります。
他の島々からも多くの人が移り住みインドネシア全人口の約6割が住んでいるといわれるジャワ島の人口は約1億2400万人で人口密度は981人/㎢となっている。

位置

ジャワ島は、インドネシアを構成する島の一つ。世界で最も大きい島といわれているスマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長くスマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。東西に細長い形状をしており、インドネシアの中西部に位置する。

地形

ジャワ島の面積は128,300㎢でインドネシアの政治,経済の中心をなす島である。同国南部にあり,インド洋とジャワ海を分けアルプスヒマラヤ造山帯に属する。東西に火山帯が貫通し,最高峰スメル山やほか多数の火山が存在する。ソロ川,ブランタス川を中心に多くの川が曲流し,北部平野と山間の河谷はきわめて肥沃。熱帯気候で,主に雨季 (12月~3月) と乾季に分けられます。インドネシア内で全人口の 60%以上がジャワ島に集中し,人口密度も高いとされている。住民は主に島東・中部を本拠とするジャワ人,西部のスンダ人のほか,マドゥラ人,中国人など様々です。
ジャワ原人やソロ人の化石の発見にも散見され,古くから人類が居住した島となる。
イネ,キャッサバ,トウモロコシなどが栽培され,プランテーション方式でゴム,茶,コーヒー,タバコなどが作られている。また、北東沿岸沖合いのアルジュナ油田から石油,天然ガスを採掘し,スラバヤなどに製油所が存在する。衣料,製紙,セメントなどの工業も盛んでボロブドゥールの遺跡やジョクジャカルタのスルタン宮殿,スンダ文化と学問の中心地バンドンなど,長い歴史をとどめる史跡学校あり,観光地が多く存在する島である。

気候

ジャワ島の気候主に3つの気候に分けられます。ジャワ島西部は熱帯雨林気候、中部より東はモンスーン気候、東の地域はサバナ気候となっています。11月から3月が雨季、4月から10月が乾季となり首都であるジャカルタの平均最高気温は32℃、最低気温は25℃となっている。標高の高い地域に関しては朝晩は冷え込むため薄手の上着が必要。
乾季の1ヶ月の降水量は平均100㎜以下となる。また、雨季は毎月200㎜以上の雨が降り、最も降る月は400㎜以上になる。

生態

過去の動物は絶滅したとされるジャワ島にしか生息していない食肉目ネコ科に属するジャワトラやジャワサイとジャワヒョウなどがいた。
現在はトラ、インコ、オオトカゲや西部(ジャワ島、スマトラ島など)に分布し池や沼地などに生息しているジャワハコガメやオナガザル科のシルバールトンなどジャワ島には様々な動物が数多く存在している。更にジャワ島のジャカルタにラグナン動物園というインドネシア最大の動物園があり、そこには多くの固有の動物たちがいます。

植物はコンロンカやアラマンダ、熱帯性のスイレンが咲いている、更にジャワ島ではボゴール市内にあるボゴール植物園があり。ボゴール宮殿と併設されていて植物園の面積は80ha以上あり、15,000種以上の植物を見ることができます。
東洋最大規模、最大栽植種を誇る植物園で農業・園芸分野における19世紀の世界的プロモーション・センターとして機能している。オランダという狭小・低資源国の植民地経営がもたらした、アジアにおける輸出産品・育種研究の歴史的遺産となる。
キャッサバ芋、キニーネ薬、タバコ、コーヒー等の普及は、この植物園なくしては語れません。

歴史

ジャワ古代史に関しては、7世紀以前を西部ジャワ時代(4世紀:タルマヌガラ王国、7世紀:スンダ王国(英語版))、8世紀から10世紀前半までを中部ジャワ時代(8世紀:古マタラム王国・シャイレーンドラ朝)、その後の10世紀前半から16世紀初めまでを東部ジャワ時代に大きく分けられる、東部ジャワ時代の前半の3世紀はクディリ時代(西ジャワにはヒンドゥー国家のパジャジャラン王国(1579年滅亡)があったことが明らかになっている)、後半の3世紀はシンガサリ・マジャパヒト時代と呼んでいる。分ける理由としては王都の変遷、つまり権力と文化の中心地が移ったためである。

インドネシア中心部の島。仏教、ヒンドゥー教、イスラム教文化が交替し独自の文化を発展させました。

(5世紀-16世紀末)

オランダが進出し、その植民地支配を受けた。第二次大戦後にインドネシア独立の中心地となった。
ジャワ原人の化石が発見されたトリニールもジャワ島にあり現在も人口密集地帯である。
ジャワ島はおよそ3つの区域に分けられ、西部・中部・東部に分かれる、それぞれ異なった歩みをしているので注意が必要。住民の特徴として西部はスンダ人、中部・東部をジャワ人として区別する。
5世紀頃からインド商人の渡来によってインドのグプタ文化が伝えられた、仏教・ヒンドゥー教が信仰されるようになる。
スマトラ島・マレー半島のシュリーヴィジャヤ王国とも関係があり、8世紀の中部ジャワにシャイレーンドラとマタラム王国(古マタラム王国)という二つの国生まれる。
シャイレーンドラでは大乗仏教が信仰し仏教寺院としてボロブドゥール寺院が建設された、マタラム王国ではヒンドゥー教(シヴァ神に対する信仰)が信仰されプランバナンというヒンドゥー寺院が建設される。
ジャワ島中部のほぼ同じ8世紀に、仏教寺院とヒンドゥー寺院が建造されていることがジャワ島の文化において注目すべきことである。 10世紀頃大規模な噴火などの自然災害ではないかという説により文化は忘れ去られていた。
その後、ジャワ島東部には11世紀にクディリ王国が起こった。13世紀にはシンガサリ王国が興ったが、元軍の侵攻を受けることとなった。

1292年、元のフビライが遠征活動の目的として大艦隊を派遣して来たときシンガサリ王国は抵抗した。
また、内紛が生じ国王が殺害されるという事態となったが王家の一族がマジャパヒト王国を建設し、権力を握るという王朝交替が起こる。
マジャパヒト王国は巧みな交渉で元軍を撤退させ、独立は維持に成功した、フビライの南方遠征は軍事的目的より、通商圏の拡大の意図が強く、その実行にはイスラム商人勢力が関わっていた。
その実態は、「遠征軍」という名のムスリム海洋商人の主導による貿易船団であった。
国家と特権を持つ海上企業がタイ・アップした貿易振興事業。
中央にいて、南方の出先からの申請を認可したクビライたちは、ジャワ島についてみると、現地の紛争に出動を要請され、陸戦部隊により山国内戦争に介入してしまった。
内戦に利用され撤退となった。
16世紀から西部にバンテン王国、東部にマタラム王国というイスラム勢力が生まれた。東南アジア最初のイスラム国家で港市国家としてマラッカ王国が1511年にポルトガルによって征服されたことが理由。
マラッカ海峡を通るとポルトガルの関税が課せられることになったムスリム商人は、それを避けてスマトラ島とジャワ島の間のスンダ海峡を通ることになり、スンダ海峡に面したジャワ島西部がイスラム化してバンテン王国が成立したとされる。また、ジャワ島西部ではヒンドゥー教国のマジャパヒト王国が衰えており、イスラーム教国マタラム王国が起こった。

(1596年-1824年)

1596年、オランダ艦隊がバンテンに来航しオランダ(ネーデルラント連邦共和国)の進出が始まった、オランダ東インド会社の植民地経営の拠点として1619年にバタヴィア(現在のジャカルタ)が建設される。その後オランダはモルッカ島の香辛料などを獲得しジャワ島を集積地として中継貿易を展開した、1623年にはアンボイナ事件によりイギリスを排除することに成功した、しかし、17世紀後半から18世紀にかけイギリスが海洋帝国として隆盛期を迎えると次第に衰退していった。
オランダは次第に貿易から領土支配へと関心を変化させていった。香料などの奢侈品の交易から、コーヒー・サトウキビなどのプランテーション経営に方針を切り替え、ジャワ島の領土化をおこない、バンテン王国、マタラム王国を事実上の保護国とし、オランダ領東インドを拡大した。フランス革命の余波によりネーデルラント連邦共和国が滅亡、1799年にオランダ東インド会社も解散した。
イギリスの一時占領とオランダの直接統治に加え、本国がナポレオンに占領されるとフランスと戦っていたイギリスが1811年にジャワ島を攻撃して占領した。
イギリス東インド会社はラッフルズを派遣後にジャワ島植民地化を進めたが、ナポレオンの敗北後イギリス本国はフランスとの緩衝国家としてオランダ立憲王国(連合王国)の独立を認めジャワ島の返還を決定した、イギリスの支配は短期間で終了し、以後オランダがオランダ領東インドとして直接支配をすることとなる。

1824年のイギリス=オランダ協定でイギリスはマレー半島、オランダは現在のインドネシア島嶼部を領有することが決定した。

(1825年-1830年)

ディポネゴロを中心とした反オランダ蜂起であるジャワ戦争が起こり、戦争を鎮圧した後、オランダの総督ファン=デン=ボスは強制栽培制度によるコーヒー、サトウキビ、藍の生産を指示した。ジャワ島は耕地がコーヒー、サトウキビ、藍栽培用の大農園に注力したため、米不足となって飢饉が発生したとされる。
20世紀に入り、インドネシア民族運動が始まる、ジャワ島も中心地としてカルティニを筆頭に、サミンの民、ブディ=ウトモ、サレカット=イスラムなどの組織が活動した。

第2次世界大戦中には一時日本軍の軍政下に置かれた後、オランダとの独立戦争を戦い、1950年にインドネシア共和国として独立した後、バタヴィアは首都ジャカルタとして政治経済の中心地となる。

1955年にはジャワ島のバンドンで、第1回のアジア=アフリカ会議が開催される。

ライフスタイル

地域生活

東南アジアの国インドネシアは多民族国家の一つで様々な民族が住んでるといわれ、約300を超える民族が住んでいる。そのなかでも最大規模を誇るのがジャワ人と呼ばれる人々で、ジャワ人の人口規模は非常に大きくインドネシア国内の約40%を占めているとのこと。
また、比較的大きなコミュニティを作って暮らしている。
ジャワ人のコミュニティにはイスラム教、ヒンドゥー教、ヨーロッパの文化が融合した独自の歴が存在する、この歴では2つの周期が含まれる、7日間単位のサイクルと5日間のみで構成されるパサランという周期がある。

ジャワ人は世界的に見ると、礼儀作法が極めて高く常にお辞儀やお礼、言葉遣いなどが行き届いており相手の気持ちを尊重して話すのもジャワ人の特徴の一つです。
更にテーブルマナーにおいては立食パーティは行われることはなく周囲に気を使い音もたてずに丁寧に食事することを心がけています。

ジャワ人の家庭環境は主に両親と子供たちですが他の親戚も一緒に住んでいるのもジャワ人の特徴です。
結婚に関してはお見合い結婚が比較的多い。更に女性は比較的自由に旦那と別れることができるのがジャワ人の生活の特徴でもあります

都会に住むジャワ人は伝統や風習を守りアパートに住んで在宅ワークをしている人が多く、農村部に住むジャワ人は農業に従事し米を中心にトウモロコシ、ピーナッツ、大豆を育てて生計を立てている。

宗教

ジャワ人の多くはイスラム信者であり他にキリスト教信者(プロテスタント、カトリック)もいる、その多くは中央ジャワ州に集中している。
更にカトリックはスラカルタ、マゲラン、ジョグジャカルタに多いです。わずかに、ジャワ人の中に仏教徒やヒンドゥー教徒も存在します。
ジャワ人の多くは民族宗教であるケジャウェン (kejawen) を信仰しており、ヒンドゥー教、仏教とイスラム教の影響を受けた地元アニミズムであるとのこと。ジャワ人はさまざまな宗教の神々や教義などの一部が混同ないしは同一視する習合の概念を取り入れている一例といえるでしょう。外部からの文化をジャワの伝統的価値観に翻訳・吸収し、うまく地元独自の新しい宗教概念を生み出しています

言語

日常会話は現在はインドネシア語を愛用している人の割合が高い、以前までは1990年に実施された世論調査によると、ジャワ人のおよそ12%はインドネシア語を、約18%がジャワ語とインドネシア語の両方を、そして残りの約7割の人はジャワ語のみを使用すると回答した。
ジャワ語はインドネシア・ジャワ島の中央部から東で話されている言語であり、その本拠地はジャワ島東部と中部が中心となる。また、西部の西ジャワ州では主としてスンダ語が用いられるが、バンテン州 (Banten) の北方海岸地帯では再びジャワ語が用いられています。
19世紀以降行われた移民政策により、ジャワ島以外にも、スマトラ島ランプン州 (Lampung)、マレーシア、ニューカレドニア、南米のスリナム共和国などにジャワ語圏があります。
ジャワ語など民族の言語の多くは、インドネシア語とは文字も発音も異なります。インドネシア語のみを知っている状態で、ジャワ語の会話を聞くと、本当に外国語に近いです。子どもたちは、地元の言葉としてジャワ語やジャワ文字の読み書きを学校で習いますが、若い世代は、ジャワ語よりインドネシア語の方が得意という人も多いです。そうなると、インドネシア語が中心となりジャワ語が第二言語となります。

文化と芸術

文化と芸術 - 観光文化としての伝統文化

インドネシア文化は土着の習慣に外国からの影響を受けて長年の間に発展した。インドネシアは東アジアと中東を結ぶ古代通商航路の要衝であり、長い間の文化交流の結果、ヒンドゥー教、仏教、儒教、イスラム教などの強い影響を受けた文化があり元々の土着文化とは全く異なる複雑な文化が生まれました。
文化融合の例として挙げられるのがジャワ島のアバンガン教に見られるイスラーム教とヒンドゥ教の融合、ロンボク島のボダ教に見られるヒンドゥー教・仏教・アニミズムの融合、とダヤク族のカハリンガンに見られるヒンドゥー教とアニミズムの融合などがあります。
芸術の分野でもこのような文化融合が見られます。伝統的な人形劇のワヤン・クリはジャワ島の村人達の間にヒンドゥ教やイスラム教の布教する媒体として使われている。
ジャワやバリ舞踊には古代仏教やヒンドゥー王国をテーマにした物があります。スマトラ島でも特にミナンカバウやアチェではイスラムの美術や建築様式が見られます。プンチャック・シラットという武術は土着美術、音楽、とスポーツが融合してできた物です。

舞踊・音楽

インドネシアの舞踊は、その国家を構成する民族の多様性を反映しています。オーストロネシア民族舞踊とメラネシア民族舞踊の様式が散見されるがインド、中国、中東などのアジア近隣諸国や植民地時代の西ヨーロッパの影響も見られます。各民族には独特の舞踊があり、合計3,000種類以上を数える。
インドネシア舞踊の歴史は先史時代、ヒンドゥー・仏教時代、イスラーム時代の三つの時代に区分され、宮廷舞踊と大衆舞踊の二つのジャンルがあります。
インドのラーマーヤナとマハーバーラタを題材にした伝統舞踊がタイやバリの舞踊にも取り入れられています。
ジャワ舞踊にはスラカルタ王宮を中心に発展したものと一般大衆が独自に創作した舞踊があります。
ジャワ、スンダ、バリのワヤン人形劇ではインドの神話伝説ラーマーヤナやマハーバーラタを題材して演じられ。ワヤン・オランはワヤン・クリの題材を人間が演じる物です。
ジャワの伝統芸能としてルドゥルッやクトプラッという喜劇があり。スンダの喜劇はサンディワラ、ブタウィの喜劇はレノン(Lenong)と呼ばれます。
ミナンカバウのランダイは音楽、舞踊、演劇とプンチャック・シラットの要素を取り入れた総合芸術であり。ミナンカバウの神話、歴史と男女の物語を題材にしています。

影絵芝居

ワヤン・クリ(Wayang Kulit)とは、インドネシアのジャワ島やバリ島で行われる人形を用いた伝統的な影絵芝居です、またそれに使われる操り人形のことです。人形を操る人をダランと呼び芝居はヒンドゥー寺院での祭りなどで行われ、インドの古代叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などが主な演目であります。また、10世紀には既に演じられていたことが記録されている。
ワヤン(Wayang)は影を、クリ(Kulit)は皮を意味します。2003年には、ユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」において傑作の宣言を受けており、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録されました。

日本では単にワヤンとも呼ばれているが、ワヤンには他に、人間が演じるワヤン・オラン(英語版)、人形劇のワヤン・ゴレ(英語版)などがあります。

工芸

ジャワ島の伝統工芸 世界的にも知られているパティックはもともとはインドからジャワ島に伝わったものです、 現在インドネシアの各地で見ることができます。 ジャワ島の各地では現在もバティック産業が盛んで、 パティックの模様は極めて多く、3000から5000もの種類があります。 古い伝統的なもから19世紀以降のものなど多岐にわたります。産地によりその特色が生かされ色、デザイン、模様がそれぞれ異なり。 それゆえにバティックの専門家は伝統的な模様を見ることで産地がどこかを判別することが可能となります。 バティックの歴史とデザイン的特徴を知れば、ジャワ島の工芸はさらに意義深いものになるでしょう。

バティックの模様と歴史

バティックの歴史は12世紀、仏教・ヒンドゥー文化とともにジャワ島東部のクディリ王国にもたらされたのを端に発する。バティックbatikはジャワ語のambatik(自い布に純な点描をする)に由来していて当初はジャワ島、マドゥーラ島、スマトラ島のジャンビに限られた。
後々インドの更紗の製法とは異なる独自の方法が施されるようになり、 木綿布や防染材料の蜜ロウ、染料が現地で調達できるようなると、 ロウ防染だけによるジャワ島独自のバテイックヘと発展していきました。
14世紀に入ると画期的な発見によりバテイック制作に大きな変化をもたらしました。 チャンティン(蜜ロウを入れる道具。鳥のくちばしのような形をした先端から細くロウがたれる仕組み)の考案で、 それまで竹べらで描かれていた単純模様は驚くべき進歩を遂げことになった。バティックに描かれる模様には、仏教、ヒンドゥー文化の影響が見られるが、より 精緻な輪郭をもつ複雑なデザインが描かれるようになる。 また、インド、中国、中東、ポルトガル、オランダなどの交易先から影響を受けたジャワ島各地の文化が、バティックのデザインにも反映されました。
この頃から一般的にも広く愛用されるようになり 当初バティック制作は王宮貴族の独占的な仕事であったため、それらは王宮独特の模様でもありました。 しかし、交易が盛んになる16~17世紀以降は 大量の木綿や蜜ロウが安価で手に入るようになり、バテイックは一般の人々にも広まっていきました。

ジャワ絵画

ジャワの宮廷文化を現代に引き継ぐ芸術の都・ジョグジャカルタ。ジャワの芸術としては影絵芝居であったりガムラン、ろうけつ染め等のアートばかりが注目されているが、ジョグジャではインドネシア近代絵画界きっての巨匠・アファンディ画伯(1907-1990)もジョグジャを活動拠点としていたことからペインティング文化も根付き始めているとのこと。アファンディ画伯は市内の東側をひっそりと流れるガジャ・ウォン川の畔を拠点とし。画家亡き後はアトリエ兼住居がそのまま個人美術館として開放され、インドネシア国内の画家の卵達の聖地とされてきたそうです。ダラットのクレージーハウスかのような奇矯なオブジェクトやら建物やらに驚かされます。高く育った木々に埋もれるように建つバナナの葉の様な屋根を持った高床式住居があり。ここがアファンディの生活拠点跡だそうで内部には絵画だけでなく、アファンディの像や愛用車であった70年代の三菱ギャラン等も展示されています。

経済と観光

観光業 - 主な観光地と観光産業

「ボロブドゥール遺跡」、「パオン寺院」、「ムンドゥ寺院」の3つの仏教遺跡からなる「ボロブドゥール寺院遺跡群」は、世界遺産にも登録されるジャワ島を代表する観光スポット。規模の大きさはもちろんのこと、各遺跡の精巧で優美なレリーフや仏像に圧倒されます。

ボロブドゥール遺跡(ボロブドゥールいせき、Borobudur)

インドネシアのジャワ島中部のケドゥ盆地に所在する大規模な仏教遺跡で世界的な石造遺跡。世界最大級の仏教寺院であり、「ボロブドゥール寺院遺跡群」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されている。インドから東南アジアに伝播した仏教は一般に部派仏教(上座部仏教)と呼ばれる仏教であったが、ボロブドゥールは大乗仏教の遺跡です。ボロブドゥールは今や年間100万人の観光客が訪れる観光地となっています。しかし、政府が外貨を獲得する代償として、地域住民が負担を強いられる原因ともなっている。遺跡環境整備のための周辺農地の収用である。これは強制的な立ち退きを含むものであり、耕地面積の狭小な農民にとって大きな痛手となっています。遺跡公園となった外側の土地も、はっきりした買収費が払われていない部分が多く存在する。ボロブドゥール寺院には、数多くのインドネシアの児童生徒が社会見学や学習旅行、遠足のために訪れるが、仏教徒がわずかなインドネシアでは管理は株式会社化し、イベントやアトラクションを考えて経営する遊園地化となっている。しかし、ボロブドゥールは仏教徒にとって重要な意味をもつ場所であることは言うまでもなく、数多くの仏僧や一般信者が参詣につめかけるようになり、寺院としての本来の役割を担うようになりました。上述のような問題や批判がある一方で、国民統合の象徴のひとつとして国内外からの強い関心が払われています。遺跡だけでなく、遺跡内から眺めることができる景色にも注目です、最高のタイミングで朝日や夕焼けがみられるツアーが催行されています。

プランバナン寺院群

インドネシアのジャワ島にある寺院です。ヒンドゥー教の遺跡で、古マタラム王国により建設されています。インドネシアでは最大級の遺跡として、ユネスコの世界遺産に登録され、3つの神々に捧げられた寺院が特徴的で仏教とヒンドゥー教の二つの宗教で構成されており、高度な石造りの建築技術を間近で見ることができます。2006年にはジャワ島中部地震により大きな被害を受けましたが2009年に修復が完了しました。プランバナン遺跡公園内にある仏教寺院へは、観光客用のゴルフカートがレンタルされているため簡単に行くことができる。240以上の小仏堂や神像などがあります。

ブロモ山

ジャワ島東部に位置する「ブロモ山」は、”火の神”が住むと言われる火山。”砂の海”の名を持つカルデラからは、地球の大きさや大地のパワーを感じます。山麓にはヒンドゥー教の寺院もあり、この山がヒンドゥー教に人たちとってとても大切な場所であることが実感できます。カルデラを越えると火口近くまで接近することも可能です。黙々と煙を噴き上げる噴火口は、恐怖を感じる反面、地球が生きている証でもあり、ある種の感動を与えてくれます。

国立記念碑

インドネシアの首都であるジャカルタの中心地に「国立記念碑」があります。高さ137メートルにもなるこの塔の最上部には炎を模したモニュメントが飾られ、そこには約35キロの純金メッキが施されている。記念碑の下は歴史博物館になっておりインドネシアの歴史を学ぶことができる。また、塔内部にはエレベーターが設置されており、最上部は展望台になっています。開館時間が9:00~16:00までなので、夜景を見ることはできませんが、活気あふれるジャカルタの街を一望することができます。

交通

島外との交通

日本との直行便があるのはジャカルタのみでガルーダ・インドネシア、ANA、JALが東京・大阪・名古屋との直行便を運航している。ジョグジャカルタ・スラバヤなど他都市はジャカルタ・デンパサールでのインドネシア国内の乗り継ぎまたは マレーシア・シンガポールでの第3国での乗り継ぎとなっています。バリ島・スマトラ島など他島との移動は空路がメインのため、各島の都市を結ぶ国内線は充実している。また、ジャワ島内での移動は飛行機は一般的な交通手段です。大都市から地方都市まで毎日多数の便が運航しています。

島内交通

インドネシアの島々のなかで最も交通機関が発道しているのがジャワ島です。 東西1000kmをつないでいる鉄道や各州都に乗り入れしている飛行機、 東西南北縦横に走るバスなどが利用できる。
飛行機が一番速いですが、場所によっては鉄道の方が早い場合などもあります。中心部から空港までの所要時間やチェックインの時間を考慮して選択したほうが良いです。
鉄道駅は市の中心地にあり、アクセスには比較的便利です。 特に特急は食事や飲み物が付いて航空運賃の約4割の価格で移動することができます。時間がある人にはおすすめです。また、夜行なら宿泊代を浮かせられることができます。
最も安いのはバスでの移動です。 長距離になると肉体的にかなりきついですが、鉄道のない小都市間の移動には使えます。 飛行機はジャカルタから各州都を約1時間で結びます。1日数便あるので、 時間を有効に使いたい場合や荷物の持ち運びに心配な人におすすめです。

インドネシア国有鉄道Perusahaan JawatanKereta Api (プルサハン・ジャワタン・クレタ・アピ)が島内を縦横に走ってます。ジャカルタからスラバヤ間は最長区間で823kmにも及びます。
鉄道の駅の多くは街の中心部にありアクセスも良く、宿探しや 市街地の散策にも良いです。列車は区間距離により特急、急行、普通列車があり、料金はエコノミー、ビジネス、エグゼクティプ、スペシャルの4等級 に分れます。
特急は座席指定のエグゼクティブ、スペシャルのみで、乗り心地は快適です。 車窓から街並みや移り変わる景色が堪能できます。難点といえば発着の遅延や長距離列車の本数が少ないことでしょう。 飛行機に比べ時間はかかります。
列車により最新の特急列車で、冷房、リクライニングシート、車内電話、カフェなどの設備があり、食事、飲み物、スナックが付きます。

比較的小さい範囲を移動するのであればバスがおすすめです。 大都市間をつなぐ大型長距離バスもありますが、小都市間や市内を走る路線バスがくまなく網羅しています。
飛行機や鉄道と比べ料金は安いが、特に長距離の移動は 時間はかかるし、大きい荷物がある場合はとくに持って歩くのに 苦労するでしょう。
中・長距離バスは町の中心地から少し離れたバスターミナルで乗降し、 町の中心部へはアンクタン・コタと呼ばれるミニバスに乗り換える。 ミニバスは、路線上ならバス停でなくても乗り降りできるのが利点です。 夜行バスは猛スピードと盗難の危険性があるため避けた方が安全です。